熟成時間

あらゆる方面からの雑多な入力による、断片化されたそれぞれの知識が、結合(このプロセスは、脳内でシナプスが互いに手を繋ぎあうプロセスと同義であり同時である)し、あるひとつのアイデアに帰着するには、ある程度の熟成の時間が必要である。
おそらく、その期間に脳は、それぞれの知識、あるいは単体の全体であるアイデアの部分としてのエレメントを、多角的に分析し、そのインターフェースを明らかにするのだろう。明らかにされたインターフェースはやがて、あるきっかけにより相手を見つけ合体する。ここにおいてインターフェースは、一対一のuniqueなものでは必ずしもなく、ある完全な形態、―― そう、たとえばLEGOブロックをイメージすると理解しやすい、―― ような形態をしており、その時その瞬間に偶然、あるいは必然的に隣り合わせのエレメントと結合を繰り返すのかもしれない。また、ある単体の全体であるアイデアは、必ずしも複数のエレメントの集合ではないかもしれない。つまり、それはパターンであり、複数のエレメントが共通に持つ性質、この場合本質であろうか、がある具象を結ぶこともありうるだろう。つまるところ、我々は雑多に仕入れた情報を、時間をかける(熟成させる)プロセスを経ることで、エレメントに分解し、攪拌、分類し、結合する(このことが実は手法に他ならないことは後述する)ことで新たな価値を生み出しているのだろう。

ある分野で行き詰まりを感じている時、他分野のエレメントにより目の前の壁を打ち破ることがしばしば起こるのはこのためでもある。

その存在の本質において建築は、工場生産される工業製品とは根本的に違う
という立場に立脚して考えた(私はつまりコンピュータによるオートメーションデザイン、及び建設を真っ向から否定する)とき、それはすなわち、建築家の復権であるところの救済を宣言することを意味する。あらゆる分野でも依然そうであるように、建築でも最終的には人間に判断が委ねられるべきことは自明である。ここで私はあらためて宣言する。 

設計とは決断(判断)であり、時間という次元を挿入するとすれば、設計プロセスとは決断(判断)のプロセスに他ならない。たとえ、あらゆる構成部材(エレメント)が、コンピュータによりオートマティックに選択されようとも、それがある方法論、すなわち作家個別のマニエラ(手法)でもって構築されない限り、単なる選択による製品は建築にはならないのだ。
このことは、ある別の分野においてよりはっきりと明言される。

料理人は、客のニーズと客が指定した材料を用い、料理人の腕(マニエラ)でもってそれを料理し提供する。
設計は料理である。
そこから、料理はつまり決断であり、そのプロセスはまさに素材を調理するタイミングの積み重ねである。

このことはまた、さらに他の分野で見つけることが出来ることであろう。しかし、それにはもう少々時の熟成を待たねばなるまい。

今日のところは、私の中でそれぞれ独立して存在していた、建築家という職能と料理人という職能が、今この瞬間に一体化を見たという事実だけを記述しておくことにしよう。

職能がア・プリオリなものか、ア・ポステリオリなものかという議論は、また後ほどに。
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  by gstomach | 2004-10-17 03:16 |

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