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根拠

学部2年生相手に設計の授業をアシストしている。
建築初学者だから大目に見なければいけないが、幼稚すぎる。
口をついて出てくる言葉、表現であるところのファッション、思想、創作、ドローイングなどなど。
もっと言ってしまえば彼ら、彼女らの存在すら怪しい(危うい)ものだ。

およそ分析的思考プロセスを遡行しないできわめて狭い自己世界イメージから出てきた何か(当然、何も形成しはしないもの)を現象させようとする。

課題は図書館と資料館であった。
施設としての属性の与えられた建築である。
建築とは、その存在理由において、それが現象するときは何らかの施設としての属性が与えられる。つまり我々の目の前に現象する建築はすべて目的と機能があるその点において、施設である。

それを設計するとき、最低限の要求事項(施設としての機能、性能)を一切無視したアプローチ、緑とか、皆としゃべれるとか、カフェとか、ギャラリーだとかを想起する。
その結果、それらあいまいなイメージを形態に落とし込むだけの知識と方法がない彼らは、“何々のような”というイメージを語る(正確には語れていない)のみで、それ以上発展できない。

我々は紙面に線一本引くだけにも理由根拠が必要なのだ。
線とは、ある任意の点と点を結ぶベクトルに他ならないわけで、それが何処に向かって、どのくらいの太さで、どのくらいの長さを持っているものなのか、それが非常に重要なのである。

根拠とは知識に他ならない。知識が多ければ多いほど、物事の決定にたくさんの根拠を持つことになる。厳密に言えば、決定されたものを実際に描くときには手法が介在する。

おそらく建築を志す人間なら誰しも陥るだろうこの種の悩みに如何に早く気づき、解決出来るかがこれからを決定するのだが、残念ながらそれに気づく学生は一握りいるかいないかだろう。

即日設計のプログラムで、昨日は朝から夕方まで拘束された。
あれだけの時間がありながらごく簡単な課題に解答することが出来ずに、満足に線をひくこともできない。

よくわかっただろう。
線一本ひくことの難しさが。
それには根拠理由手法が必要なことが。

「自分はこうしようと思う。」
というおよそ彼らのほとんどが用いる言い回しには一切根拠がないということが。

「自分の考えを大切にする」

そういった教育を受けてきたのかもしれないが、西洋のそういった思想を表層的にだけ輸入した日本の教育現場(救いようのないほど腐敗しきった場所)では、その根本にある「分析する」ことを決定的に欠いた教育が行われている。

「分析する」ことはつまり情報を客観的に処理するということである。古代ギリシアにおいてすでに確立された思考方法では、これら一般化された情報を「統合する」ことで解答を得る。これがいわゆる帰納法演繹法である。

このプロセスこそが唯一的に「自分はこう思う」の根拠となりうるのだが。。。

君たちのまずやることは、ただひたすらに勉強し、そういった思考方法を学ぶと同時に、第一義的に知識を蓄積することだが、こと設計に限定して話をするのならば、まず与えられた施設を定義することである。施設を一般化して解体する。解体されたものから今回必要とされるエレメントを拾い集め統合し、望ましい施設を構築する。

施設を定義することは同時に建築を定義することである。
それゆえ、建築は毎回定義されねばならないし、定義の数だけ建築は存在する。

  by gstomach | 2004-10-24 02:58 |

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