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バランス

365日というスパンで考えると、その時々で時間を割かれるものについ熱中しすぎてバランスが偏りすぎてしまう。

今がまさにその時期で、研究に打ち込んでいるとその対象に限りなくどこまでも沈降したくなり、その願望は同化という一点に収斂するようにも思われる。果てはこいつを生涯の仕事に出来たらなと思うこともあるが、自分が研究に向いていない(能力がないという意味ではない。むしろそれを通り越したところに興味がある。)のはよくわかっているので、そういうときは逆に(?)仕事に打ち込もうと思う。いつだってこのどうどうめぐりをそうやって繰り返してきたのだ。

自分を研究に縛り付けているものはなんといっても非常に短スパンでやってくる研究評価の場である。ゼミ然り委員会然り講義に設計などなど。。。それらがとめどなくやってくるおかげで今やここ数ヶ月(半年近く)まともに休んだ(何も考えずにぼーっとする)ことがない。

知識の探求はそれだけでも価値があり、私のような人間には面白すぎて仕方がないのだが、やはりそれに固執してしまってはいけない。何事も実践(現実)と突き合わせて一体として考えなければならない。つまるところ、この忙しい時期に仕事(シェフ)も同様にあまり休まずしているのは、こういったバランスや生活・経済の安定も維持する上で欠かせないことなのだ。

研究に打ち込みたいから休みたいという思いはあるが、それをしてしまったらとことん迷い続けた挙句にそこから抜け出せない事態に陥りかねない。

やはり自分にとって建築と料理というものは一心同体に自己の中にある。

今の状況を端的に表現すると、自己の内部にそれぞれ確固とした領域を築きながらも持ちつ持たれつの危うい均衡を保っているものが、各々、あるいは時として別個に肥大化・拡散化するために自己を解体しようと作用する。それらは一心同体であるがゆえにどちらかが先行してもまずいのだが、そういった状況が起こるときに必ず精神やら肉体に偏重をきたす。一時期の自律神経失調症や今の体調不良などである。

何が言いたいのかというと、それらの肥大化・拡散化を代わりに担ってくれる誰か、ようするに助手あるいは部下がほしい今日この頃。

今は安心して仕事を任せられる後輩、適格に指導してくれる教官。将来的にはわが社の研究部門と職能集団。
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  by gstomach | 2004-10-30 06:59 |

フランスの女

今我々の研究室に留学生として来ているフランス人のステファニーは、いろんな意味で強力である。

どういうわけか外国人に異様にモテル私は、ステファニーにも例外にもれず気に入られている。一体それがなぜなのかよくわからないが、とにかく日本では嫌がられる私の体型が彼女たちに支持されること。つまりデブではなくガッチリとしたと捉えられること、それに顔というかヘアスタイルまで含めて指摘される、ユニークだという印象。ユニークというのは面白いというのももちろんあるが、彼女たちが殊更強調するのは個性的だということであろう。その証拠にキャラクターを褒められる。

そもそもポルトガルで鍛えられたラテンののりは、自分の生来もっている性質なのかと思うほどにしっくりとはまったし、もともと(前世は)ラテンの生まれなのだとも思った。記憶をたどると、自分のラテンとの出会いは、サッカーの神様ジーコにさかのぼり、それ以来なんやかんやでいくつかブラジル及びポルトガルとの関係性が浮かび上がる。生まれ育った町自体もある意味国際色あった。そこ自体異邦人の集まる町であった。それらを総合して環境と呼ぶのなら、まさに人間は環境によっていくらかは影響を受け育まれる。

そんなわけで、挨拶程度のスキンシップやキスはお手の物だが、ステファニーにキスを強要されたあの夜以来、会うたびに熱い抱擁とキス。性格はハチャメチャだがそういうロマンティックな場面でしかるべきセンテンスを発する彼女は実際なかなかのものだ。

ある夜、彼女が一人研究室にいた夜、仕事帰りにいつものように立ち寄っただけの私に彼女は言った。

「わざわざ私に会うためにこんな夜遅くに来たの?」

実際ただ立ち寄っただけの私は、

"I'm just coming.(ただ来ただけ)"

と答えてしまった。言った後でしまったと思いスキンシップを図る。
当然のことだが、フランス語のしゃべれない私は彼女と以後でコミュニケーションをとる。
抱きしめると彼女が決まって言う台詞、



"Oh, my big daddy."




すべてはこの落ちのために(爆)
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  by gstomach | 2004-10-26 07:02 |

生産原理

帰国して以来参加している研究委員会が昨日をもって、その形式を終了した。
というのは、活動は個人個人あるいはより小規模なチームで引き継がれていくということである。

今まで企業の部長クラスの人や官僚、弁護士、大学教授などの参加する委員会に参加(しかも教授代理とかいう形で)してきたため、今回の割と若い世代(自分以外に学生がいる!)で形成された委員会は、より身近に感じていたし、期待していた。時期が時期なだけに現在日本で最先端である我々の研究を早急に分析し、まとめる必要があった。1ヶ月に2回とかいう今までにないペースで会合が開かれ、そのたびに我々は膨大な研究資料を作成し持ち寄るわけだ。実際寝る暇のないほど忙しかったがその甲斐あって、あの(驚くべき)短期間で相当な報告書ができあがった。これを国に提出して研究費をいただくのだ。十分な内容だし、満足のいくものが出来上がった。

今回の委員会がエキサイティング(今までもある意味権力の裏側という意味でそうだったが)で充実していたのは、参加者全員の努力もさることながら、生産的議論ができたということだ。準備もままならないまま急に編成され短スパンで成果を出すという状況下で、みなが手探り状態で始まった委員会は、会を重ねる(分析が進み理解が深まる)ごとに白熱し、有意義なものになっていった。程よく役割分担された小隊は各々の分野で大いに活躍し、全体としてひとつ壮大なものを作り上げた。コミュニケーションが最大限に機能し、お互いがお互いを啓発しあう。

これがコラボレーションというものである。
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  by gstomach | 2004-10-26 06:32 |

根拠

学部2年生相手に設計の授業をアシストしている。
建築初学者だから大目に見なければいけないが、幼稚すぎる。
口をついて出てくる言葉、表現であるところのファッション、思想、創作、ドローイングなどなど。
もっと言ってしまえば彼ら、彼女らの存在すら怪しい(危うい)ものだ。

およそ分析的思考プロセスを遡行しないできわめて狭い自己世界イメージから出てきた何か(当然、何も形成しはしないもの)を現象させようとする。

課題は図書館と資料館であった。
施設としての属性の与えられた建築である。
建築とは、その存在理由において、それが現象するときは何らかの施設としての属性が与えられる。つまり我々の目の前に現象する建築はすべて目的と機能があるその点において、施設である。

それを設計するとき、最低限の要求事項(施設としての機能、性能)を一切無視したアプローチ、緑とか、皆としゃべれるとか、カフェとか、ギャラリーだとかを想起する。
その結果、それらあいまいなイメージを形態に落とし込むだけの知識と方法がない彼らは、“何々のような”というイメージを語る(正確には語れていない)のみで、それ以上発展できない。

我々は紙面に線一本引くだけにも理由根拠が必要なのだ。
線とは、ある任意の点と点を結ぶベクトルに他ならないわけで、それが何処に向かって、どのくらいの太さで、どのくらいの長さを持っているものなのか、それが非常に重要なのである。

根拠とは知識に他ならない。知識が多ければ多いほど、物事の決定にたくさんの根拠を持つことになる。厳密に言えば、決定されたものを実際に描くときには手法が介在する。

おそらく建築を志す人間なら誰しも陥るだろうこの種の悩みに如何に早く気づき、解決出来るかがこれからを決定するのだが、残念ながらそれに気づく学生は一握りいるかいないかだろう。

即日設計のプログラムで、昨日は朝から夕方まで拘束された。
あれだけの時間がありながらごく簡単な課題に解答することが出来ずに、満足に線をひくこともできない。

よくわかっただろう。
線一本ひくことの難しさが。
それには根拠理由手法が必要なことが。

「自分はこうしようと思う。」
というおよそ彼らのほとんどが用いる言い回しには一切根拠がないということが。

「自分の考えを大切にする」

そういった教育を受けてきたのかもしれないが、西洋のそういった思想を表層的にだけ輸入した日本の教育現場(救いようのないほど腐敗しきった場所)では、その根本にある「分析する」ことを決定的に欠いた教育が行われている。

「分析する」ことはつまり情報を客観的に処理するということである。古代ギリシアにおいてすでに確立された思考方法では、これら一般化された情報を「統合する」ことで解答を得る。これがいわゆる帰納法演繹法である。

このプロセスこそが唯一的に「自分はこう思う」の根拠となりうるのだが。。。

君たちのまずやることは、ただひたすらに勉強し、そういった思考方法を学ぶと同時に、第一義的に知識を蓄積することだが、こと設計に限定して話をするのならば、まず与えられた施設を定義することである。施設を一般化して解体する。解体されたものから今回必要とされるエレメントを拾い集め統合し、望ましい施設を構築する。

施設を定義することは同時に建築を定義することである。
それゆえ、建築は毎回定義されねばならないし、定義の数だけ建築は存在する。
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  by gstomach | 2004-10-24 02:58 |

EUREKA!

目的、ゴールを最初から明確に設定することは、のちに出てくる解答の柔軟性を損なうことになる。プログラミングが洗練のプロセスであるのなら、結果として出てきたごく簡単なステートメントはそれ自体が美しい。

「私が誰かに簡潔な言葉でプロジェクトを説明できるときは、自分自身がそれを十分理解していることがわかる。逆に、簡潔にそれを説明できないときは、まだ十分にそれを理解していないことがわかる。」 ・・・ ジョン・ペトロニス

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  by gstomach | 2004-10-23 02:23 |

知的好奇心

ヒトの遺伝子ハエと同じ2万2000個

ヒトゲノム(人の遺伝情報全体)を詳しく解析した結果、たんぱく質を作る設計図である遺伝子の総数が約2万2000個であることが判明した。従来、約3万2000個と予測されていたのが、大幅に減った。ショウジョウバエと同じぐらいの遺伝子数になる。

中略

 最近の研究でショウジョウバエの遺伝子数は約2万個とされ、数の上で人とあまり違わないことになる。ただ、一つの遺伝子が数種類のたんぱく質を作ることがあり、遺伝子の使われ方やたんぱく質の複雑な関係が「人間らしさ」を生み出しているらしい。


ザ・フライもあながちありえない話ではないと。。。

それに、ハエ同然の人間もいるではないか。
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  by gstomach | 2004-10-21 04:09 |

プロス・ヘン(一へ向ける思惟)

およそプロジェクトプレーヤー間の関係性の中で現象、あるいはその系でしか現象しえない建築というものにおいて、望ましい建築を実現したいと思う設計者の欲望は、実際にお金を出す発注者(お客さん)に大きく左右される。そういう意味において、お客を選べる大建築家はともかく、一般の設計家に自分の理想とする建築を実現したいと切望する(これはエゴでもある)ことは、ほとんど現実的でないことになる。つまりは、世界的に認知されうるくらいに権力と人気を得た建築家ならともかく、一介の建築家カブレ(ほんの一握りが大建築家なら、その他の全員)には、本質的な建築に近づくことさえも許されないのかもしれない(もちろん、発注者に思いもかけず恵まれた場合を除く)。

そもそも、第一の前提を踏まえたとき、建築は建築家個人の力量のみで現象することはありえないのだから、大建築家にならなくとも、彼らと協働する他のプレーヤーになればよい。そう、理想とする建築を目指すために世界一良い発注者になればよい。これは、自らの小さい住宅でもかまわないし、コンサートホールや美術館などであってもよいのだ。発注者に実力がありさえすれば、建築家とのコラボレーションによる相乗効果で、およそ個人で創造するよりもすばらしいものが出来上がるに違いない。

世界中の建築生産において、発注者が実力を高めるだけで、相当な問題が解決されるのだ。それには、建築家やエンジニアたちと対等にやり合えるだけの、あるいはそれ以上の実力と勉強が必要であることは言うまでもない。
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  by gstomach | 2004-10-20 23:50 |

熟成時間

あらゆる方面からの雑多な入力による、断片化されたそれぞれの知識が、結合(このプロセスは、脳内でシナプスが互いに手を繋ぎあうプロセスと同義であり同時である)し、あるひとつのアイデアに帰着するには、ある程度の熟成の時間が必要である。
おそらく、その期間に脳は、それぞれの知識、あるいは単体の全体であるアイデアの部分としてのエレメントを、多角的に分析し、そのインターフェースを明らかにするのだろう。明らかにされたインターフェースはやがて、あるきっかけにより相手を見つけ合体する。ここにおいてインターフェースは、一対一のuniqueなものでは必ずしもなく、ある完全な形態、―― そう、たとえばLEGOブロックをイメージすると理解しやすい、―― ような形態をしており、その時その瞬間に偶然、あるいは必然的に隣り合わせのエレメントと結合を繰り返すのかもしれない。また、ある単体の全体であるアイデアは、必ずしも複数のエレメントの集合ではないかもしれない。つまり、それはパターンであり、複数のエレメントが共通に持つ性質、この場合本質であろうか、がある具象を結ぶこともありうるだろう。つまるところ、我々は雑多に仕入れた情報を、時間をかける(熟成させる)プロセスを経ることで、エレメントに分解し、攪拌、分類し、結合する(このことが実は手法に他ならないことは後述する)ことで新たな価値を生み出しているのだろう。

ある分野で行き詰まりを感じている時、他分野のエレメントにより目の前の壁を打ち破ることがしばしば起こるのはこのためでもある。

その存在の本質において建築は、工場生産される工業製品とは根本的に違う
という立場に立脚して考えた(私はつまりコンピュータによるオートメーションデザイン、及び建設を真っ向から否定する)とき、それはすなわち、建築家の復権であるところの救済を宣言することを意味する。あらゆる分野でも依然そうであるように、建築でも最終的には人間に判断が委ねられるべきことは自明である。ここで私はあらためて宣言する。 

設計とは決断(判断)であり、時間という次元を挿入するとすれば、設計プロセスとは決断(判断)のプロセスに他ならない。たとえ、あらゆる構成部材(エレメント)が、コンピュータによりオートマティックに選択されようとも、それがある方法論、すなわち作家個別のマニエラ(手法)でもって構築されない限り、単なる選択による製品は建築にはならないのだ。
このことは、ある別の分野においてよりはっきりと明言される。

料理人は、客のニーズと客が指定した材料を用い、料理人の腕(マニエラ)でもってそれを料理し提供する。
設計は料理である。
そこから、料理はつまり決断であり、そのプロセスはまさに素材を調理するタイミングの積み重ねである。

このことはまた、さらに他の分野で見つけることが出来ることであろう。しかし、それにはもう少々時の熟成を待たねばなるまい。

今日のところは、私の中でそれぞれ独立して存在していた、建築家という職能と料理人という職能が、今この瞬間に一体化を見たという事実だけを記述しておくことにしよう。

職能がア・プリオリなものか、ア・ポステリオリなものかという議論は、また後ほどに。
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  by gstomach | 2004-10-17 03:16 |

次元の連なり

見えた!!

やはりディテールには神が宿っている。
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  by gstomach | 2004-10-15 02:20 |

タイムマジック

ふとした瞬間に一日を30時間にする方法を思いついた。
2割5分増し。

これで明日から6時間睡眠とっても24時間活動できる。
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  by gstomach | 2004-10-14 00:57 |

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE